Vtuberオタクの懺悔

コラム
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以下は私がVtuberオタクを拗らせていた頃の話です。
 
 私にはかつて一生応援すると心に誓ったVtuberの推しがいました。「心に誓った」なんて自分でも恥ずかしく思える表現ですが、当時の私はそのぐらい強いモチベーションを胸に推しを推していました。推し活も積極的に行っており、推しのツイートに対してこまめにリプを送ったり、下手絵ながらファンアートを描いてみたり、ファン同士のコミュニティに入ってみたり、とにかく推しのためになりそうな活動を見つけては手当たり次第行動に移していました。

 そうして活動を続けていると、極稀に推しから反応を頂けることがあります。私はその反応を大いに喜びました。こんな自己満足的な活動を見ていたくれてたなんて。例えば成果物に対する正当な評価を得たかのような、或いは労働に対する十分な報酬を得たような、とにかく活動に対してなんらかの成果が出たことを嬉しく思いました。
 しかし人間は欲深く愚かな生き物です。私は一度頂いた推しからの反応を、もう一度得たいと思うようになりました。反応されることで快楽を得るようになったのです。こうして私の承認欲求は徐々に制御が効かなくなってくるのです。

 そうして私は自己肯定感を満たすために活動を続けました。“推しのため”などという目的は今や単なる建前です。リプは他ユーザーとは違った方向性のメッセージを送り、ファンアートはネットの流行を取り入れつつ、時にはトレスにも手を出してみたりもしました。更には切り抜き動画やMAD動画に手を出すなど、とにかく他のファンよりも目立つ活動を心がけました。

 結果、思っていた通り推しからの反応を頂くことができました。それだけではなく、私の描いたファンアートへいいね・RT等の反応も得ることができました。結果的に推しを知らないユーザーへの宣伝ができたような勝手な達成感を得られ、私はなんだか気分がよかったです。推しの布教と自己の肯定ができる素晴らしい活動だと思いました。トレスやらMAD素材の無断利用の後ろめたさなど少しも気にならなくなります。

 しかしながら自己満足推し活生活も平坦ではありません。推しからの反応の次は、いいね・RTの数が気になり始めます。元々狭い界隈とはいえ、作品によっては何千ものユーザーが評価することだってありました。有名絵師のような絵を描きたい!というほどの強いやる気と上昇志向は、残念ながら私にはありませんでした。それでもどうにか多くの承認だけは得たいと思ったのです。欲深い限りです。

 そこで私は今までの方針をそのままにより強度の高いファンアートを描こうと思いました。ネット上の面白ネタや流行のミームなどを漁り、そこから推しと親和性の高い作品を選びミックスするのです。こうすることで作画のほとんどはトレスで片付きます。私が一からデザインを起こして描いていくには技術も経験も時間も足りません。強い絵師に対抗するためにはネタの強度と投下の速度しかないと思ったのです。もちろん、描く以上は手を抜きません。トレスしきれない推しのデザイン部分や色彩など、こだわれるところは徹底的にに手を入れました。

 こうして自信の一品が完成しました。結果は上々でした。予想していた程ではなかったものの、ある程度の反応を得ることができました。しかし、神絵師たちの作品には足元も及びませんでした。

 その後も同じ方向性で何作品か描き、その都度某SNSへ投稿しました。作品自体の方向性が取り入れているネタに依存していることもあってか、投稿する作品ごとの反応の数はバラバラです。以前よりも良く伸びることもあれば、驚くほどに少ない反応の時もありました。私はその度に数字に一喜させられ、再び数字によって一憂させられます。こうなると私の情緒はもう安定を保ってはいられず、これまでには無かった感情が芽生えてきます。例えば、これまで羨望の対象だったはずの絵師たちへ穿った目を向けるようになります。絵師と推しの癒着を疑い始めたり、他絵師のファンアートから粗を探すようになったりなど、私の陰気具合は日を増すごとに強まってきました。

 そんな折、推しからファンに向けて嬉しいお知らせが下りました。待望の新衣装配信決定とその日時の案内です。ボロくたに腐っていた私の心に火が灯りました。推しもファンも、共に念願していた新衣装とあれば、それは何かしない訳にはいきません。モチベーションの炎を燃え上がらせながら、私は一旦新衣装配信を視聴しました。視聴後、街一帯を更地にできそうなレベルで燃え上がるモチベーションをそのままに、私は推しの新衣装記念ファンアート作成に挑みました。寝る間を惜しまず、何日も時間をかけ、持てる力を全て注ぎ、使えるものは全て使い、そしてファンアートは完成しました。お世辞にも上手い絵とは言えない作品でしょう。承認欲求目当てではない、とは言えません。それでも、かつて私が持っていた“推しのため”の気持ちだけは間違いなく込められています。

 私は推しの喜ぶ反応が目に浮かべつつ、自信作とも呼べる一作を投稿しました。数時間、数日。私は忙しいであろう推しの巡回を待ちました。さらに数日。待てども暮らせども反応がない。私と同じ新衣装記念イラストが多く投稿されたタイミングだから、きっと渋滞でしょう。数日。推しからのいいねをいただくも、リプライはありませんでした。まあファンアートの量も多いし、ファンの数も増えたし。数日。あの絵にリプライはあるが私へのリプライはまだない。そして、数日。私のなかに灯る火が消えました。こうして私は走ることをやめました。

 その後の活動といえば本当に酷いものでした。推しへのリプライも、ファンアート作成や動画作成も、ファンコミュニティも、全てやめてしまいました。推しの配信を見に行くも、他ユーザーへ向けていたような穿った目線を推しに向けてしまう始末です。私は当時のように楽しんで配信を見れなくなりました。そうして某SNSのBioからファンマークはなくなり、推し活用のアカウントもなくなり、終いには推しを推すことをやめてしまいました。

 数字を追い、他者からの承認を追うレースが。推しから強い認知を得るためのレースが。関係のないユーザーを勝手に妬み嫉む輪廻が。全てが苦しかったのだと思います。いや、最終的には推しが自分の思い通りにならなかったことが耐えられなかったのだと思います。

 推しは私に幸福を与えてくれる。その存在は時には癒しとなり、活力にもなってくれる。私たちは推しを応援することで推しを支え、推しはその存在で私たちを支えてくれる。推しへの接触や指示など過度な応援は応援とは呼べない。推しは過度な応援に見合った対価を与えてはくれないし、対価を期待をしてはいけない。そうです、期待をして自爆したのが私なのです。

 ここでようやく私は推しと自己との距離感について理解したのでした。

出典↓

Vtuberオタクの懺悔|manji
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