著=湊かなえ『人間標本』を読んだ。
人間も一番美しい時に標本にできればいいのにな
出典:「人間標本」湊かなえ[文芸書]|KADOKAWAオフィシャルサイト(https://www.kadokawa.co.jp/product/322306000662/)
蝶が恋しい。蝶のことだけを考えながら生きていきたい。蝶の目に映る世界を欲した私は、ある日天啓を受ける。あの美しい少年たちは蝶なのだ。その輝きは標本になっても色あせることはない。五体目の標本が完成した時には大きな達成感を得たが、再び飢餓感が膨れ上がる。今こそ最高傑作を完成させるべきだ。果たしてそれは誰の標本か。――幼い時からその成長を目に焼き付けてきた息子の姿もまた、蝶として私の目に映ったのだった。イヤミスの女王、さらなる覚醒。15周年記念書下ろし作品。
作品について ※ネタバレ有り
本作は著者である湊かなえ氏の作家生活15周年を記念して書き下ろされた長編作品となる。
湊かなえ氏といえばデビュー作の『告白』(双葉社)を始め、『Nのために』(東京創元社)や『母性』(新潮社)などなど、多くのイヤミス(読後イヤな気分になる)作品を世に多く輩出してきた女性作家であり、ファンの間ではその作風から「イヤミスの女王」とも呼ばれている。
物語は、チョウ類研究者の権威であり生徒から「蝶博士」の愛称で知られる大学教授・榊史朗の手記から語られる。その手記には、有名な画家・榊一朗の子である幼少期の彼が如何にして蝶に魅入られ、如何にして息子・至を含めた少年たち6名を標本へと変えるか、その経緯と過程が周到かつ鮮明に記されていた。
標本となった少年たちは、程なくしてとある山中の土中にて遺棄された状態で発見され、殺人事件として報道される。それと同時期に、インターネット上の小説投稿サイトに「人間標本」なる作品が投稿される。死体遺棄事件が話題となるなか、少年たち6人を殺害し山中に遺棄した張本人として大学教授である榊史朗が警察へ出頭。その後の警察の調べにより、被害にあった少年たちの身元が判明。これにより、「人間標本」内で標本となった少年の名が事件の被害者たちと一致。一連の事件に対する話題がSNS上を始め様々なところで飛び交うこととなる。
以上が本作の前半部のあらましとなる。
狂気と残忍さに満ちたレポートと、それらの記録と事件によって沸きだす人々の声。榊史朗がなぜ、何のためにこのような犯行に及んだのか。本当に、ただ蝶に魅入られただけのサイコパスなのか。誰もがその答えを見出せぬところで、本書は全体の折り返し地点を抜ける。
そして後半部を迎えた先に待っていたのは以下の記録であった。
[夏休みの自由研究「人間標本」 2年B組 榊至]
史朗の目的は何なのか。
至は何を伝えたかったのか。
二転、三転する物語の行き着く先は何なのか。
15年歩んできた「イヤミスの女王」の極地がそこにある。
感想 ※ネタバレ有り
「なんという本を買ってしまったのだろうか。」
というのが巻頭数ページ捲ったあたりで漏れ出た感想となる。カラーページに描かれた少年だった者の標本によって早速SAN値を削られたととも、何も考えず本書を購入してしまったに後悔の念を抱いた。
その後も生々しく語られる狂気じみた行為の羅列が続く。余りの痛々しさに再び後悔の念に苛まれると同時に、怪我をしてないはずの腹部がなぜか押しつぶされるように痛みはじめる。
辛さのあまり何度もブックオフへ持って行こうか悩んだのだが、既に財布から消えた定価1,700(税別)の元だけ何としても回収しなければという、僕の中にある使命感にも似た強迫観念が本書を置くことを拒み通した。
そうして苦しい前半部を耐えた先に待っていたのは、これまでの不快感と恨み辛みを覆すほどの大ドンデン返しであった。そこからというもの、今まで本書に感じていた嫌悪感はどこかへと消えてうほどに物語へ没入した。終いには時間を忘れ一気に結末まで読み切るに至る。
「なんという本を買ってしまったのだろうか。」
実は、僕にとって本書が初めて触れる湊かなえ作品だったりする。偉そうに著者の経歴を語っておいて、だ。
代表作である『告白』がどういった物語であるか、大体の方向性と展開は聞きかじった程度で知っているし、著者がイヤミス作品を多く描いていることも、未読ながら知識として知っていた。
しかし、やはり聞いてたのと実際に読んだのとでは、印象がまるで違う。『人間標本』は、“人体の解体”や“親の子殺し”などといった、倫理的にキツめなテーマが多く盛り込まれている。グロ表現による表面上の不快さはさる事ながら、そこに至るまでの経緯に、どうしようもない救いのなさがありつつも、人とは何たるかを問われたかのよう、読後ただ鬱になるだけではない深みのあるメッセージ性がそこにある。とりわけ僕が考えさせられたのは「神様からの贈り物(ギフト)」についてである。
神様からの贈り物(ギフト)について
ギフトについて、作中にこんなエピソードが語られている。
物語冒頭部にて、少年時代の榊史朗は蝶から見た花畑の景色を描き、両親を驚かせる。
作品の記述はこちら↓
絵のタンポポは、中央を濃いピンク色、外側を白色に塗ってある。シロツメクサは全体を赤色に。
出典:湊かなえ.人間標本.株式会社KADOKAWA.2023.P23
「僕に見えるタンポポは黄色の一色だし、シロツメクサは白色だよ。でも、蝶にはこう見えている、はずなんだ。文章で書いてあったから、正しく描けているかはわからないけど。人間には見えない紫外線が見えるんだって。」
出典:湊かなえ.人間標本.株式会社KADOKAWA.2023.P23
しかし、その驚きは芸術的な素晴らしさによるものではなく、我が子が自身と違う色覚であることによる戸惑いだった。直後に本人から両親と同じ3色型の色覚であることが伝えられ、色使いの正体は蝶の色覚を再現した風景画だったことに加えて、絵そのものが蝶の標本の土台であったことが分かる。それを知った両親は安心を通り越し、息子の素晴らしい発想と作品に圧倒される。
ここでは、息子の奇抜過ぎる色使いをハンデとして捉えるパターンと、その奇抜過ぎる作品を作り上げた発想をギフトとして捉えるパターンが混在する。
最初、両親は自身の認識を超えた発想を許容できなかったためか、それらを異常として判断してしまう。ところが、そもそも息子には何の異常もないばかりか、異常に思えた色使いは研究によって裏付けられた情報の再現だったことがわかる。更には、その風景画さえも蝶の標本を指す土台とするという、想像し得ない発想が披露される。
自身と同じ尺度=同じ色覚である安心と、確かな情報による認識の補完。こうして異常だと思ったものが奇抜な発想=特別な能力(ギフト)へと裏返る。この時、両親は少なからず我が子の内にある芸術的な才能を見出していたはずだ。
もう1つ、ギフトについてこんなエピソードがある。
自分だけの標本を完成させた少年・榊史朗はわ程なくしてとある少女と出会った。彼女の名は一ノ瀬留美。史朗の父・一朗の旧友の娘である留美は、とある用事で両親と史朗の住む山中の家へやってくる。そこで史朗が蝶の舞う花畑へと留美を連れ出すのだった。
留美が見た花・マツムシソウについての記述は以下の通りと↓
「へえ、花なのに、虫ってつくんだ。端っこの、ここの色がかわいいよね」
出典:湊かなえ.人間標本.株式会社KADOKAWA.2023.P34-35
留美ちゃんはしゃがんでやわらかい花びらの縁の部分を指でなぞりながら言ったが、私にはいまいち理解できなかった。
縁も内側も同じ色だ。女の子には、かわいいと感じるものが、男が見るのとは違って映るのかもしれない
(中略)
蝶と人間の色の見え方が違うように・・・・・・。
その後、史朗の家へと引き返した留美は、史朗の作った「蝶から見た花畑」を土台とした標本を眼にし、一目惚れしたその作品を史朗から譲り受けることになる。これがキッカケとなり、留美は「色彩の魔術師」の異名を持つ画家へと大成することとなる。
留美は花畑で見た薄紫色のマツムシソウを違う色で認識していた。奇しくもそれは、史朗が絵に再現した「蝶の目」と同じ色覚であった。後に留美は史朗の作った標本を見たことによって、自身の目を肯定的に捉えられるようになるのだった。
榊一家のケースと、一ノ瀬家のケース。どちらも共通して子どものギフト(天性の才能・特別な能力)に関係している。しかし、ギフトをギフトとするか否かの認識を他者が行うか、自身で行うか、2つのケースとで別れている。
史朗が作った標本を見た榊家両親は、少なからず我が子のうちに秘めた芸術的な才能を見出していたことだろう。しかしながら、当の史朗は画家であった父と同じ道を歩むことはなかった。
史朗標本を見た留美は、自身の目を「自分だけの特別」としてとらえられ捉えられるようになる。そして、後に画家の道を志すこととなる。
ギフトをギフトとして捉えられるか、またはハンデとして捉えてしまうか。最終的にどのように判断し、どのような道に進むかは、他者がどう考えようとも、やはり当の本人にしか決められない。
本作では芸術的な才能と色覚の広さについてをギフト(天性の才能や特別な能力)として指す場合が多いが、それらは現実では優れた能力の場合もあれば、対比として劣った能力を指す場合もある。前者の芸術的な才能は、作品を見る者のセンスが大きく依存することに対し、後者の色覚は他者に依存せず、授かった者のみにしかその優劣を判断できない。とりわけ色覚においては、紫外線を色として視覚できる4色型色覚や、逆に赤を視覚できない2色型色覚など、一般的に多い3色型色覚とは違った見え方の人も稀に見られる。それら生まれながらにして授かったものがギフトとなるか、ハンデとなるか、最終的には当人にしか決められない。いくら大切な人たちや環境が受け入れたとしても、本人が受け入れ切れない場合もある。反対に、周りが受け入れない場合だってある。それは色覚だけに限らず、才能にせよ容姿や能力の違いにせよ、同様に悩ましい問題へとなり得る。
才能という言葉を使う場合、言葉の対象はどちらかといえば自身ではなく優れた他者へ向けて使う場合が多い、気がする。反対に、無才や欠点やハンデといった言葉は自身に向けて使う場合が圧倒的に多い。これは別に日本人が大好きな謙譲の美徳による精神といった寝言でやってる訳ではない。どちらかといえば、他人の方が特別に優れていて、むしろ自身は特別に向いていないだけという、本気で戦わないための自己防衛としてそれらの言葉を使う。「持っている人ざ相手だからねぇ」といった具合に。
もし、本当に何かを授かってしまったばかりに強者と同じ土俵に立つ必要を迫られれば。言い訳もできずに逃げ場を絶たれてしまえば。そんな環境で死ぬまで精神が持ち続けられるのだろうか。或いは本当にどこかが欠けていたとして、今のように気楽に生きていけるだろうか。
僕の湊かなえ作品に対する印象と同じように、持つ者と持たざる者が抱える本当の苦しみは、当人ではない者の想像などでは押し測ることなどできない、のだろう。だからこそ、これらの事柄はセンシティブで本当に取り扱うのが難しい。
このまま感想を述べていても良い落ちは思いつかないのでここらで締めさせてもらおう。どうもお疲れ様でした。
◯書籍情報
作名・『人間標本』
著者・湊かなえ
販売元・株式会社KADOKAWA
発売日・2023年12月13日
定価価格・1,700円(税別)
形態・単行本
判型・四六判
ページ数・280
ISBN・9784041142233
人間標本|湊かなえ|[文芸書]|KADOKAWAウェブサイト
https://www.kadokawa.co.jp/product/322306000662/
人間標本特設サイト|カドブン
https://kadobun.jp/special/minato-kanae/ningen-hyouhon/
コメント