ブルアカにおける先生と自己の在り方について

ブルーアーカイブ
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 この世にはゲームの主人公に自己を投影させるタイプのプレイヤーが大多数存在する。例えばキャラクターの名を自分と同じに変更するような設定や容姿への介入によるものや、或いはキャラや物語に深く没入したりなど、自己を投影させる方法はプレイヤーによって様々だし、どこまで自己を投影させるかも人によって異なってくる。

 反対に、キャラクターに対し過剰に感情移入させることなく、俯瞰的にゲームを楽しむタイプのプレイヤーも、前者と同じような割合で存在する。僕はどちらかといえば後者のタイプであり、多くの場合、主人公はあくまでも物語を構成する1要素だという考え方でゲームを楽しんでいる。度を越した作品への干渉はゲームの良さを損なうノイズでしかなく、できれば作品の設定したデフォルトネームをそのまま使用し、デフォルトに近い自然な外観のキャラを作成したい。

 ところが、余りにもキャラメイクの自由度が高い上、選択肢によるルート分岐といった自己を介在させる要素の多いゲームも存在する。そういった場合においても自己を投影させることはそこまでなく、自身の代わりに好きなキャラや芸能人に似せたキャラを作成し“ロールプレイ”を行ったりなど、あくまでも自分をキャラとしてゲームに介入させないように意識している。

 一部キャラの生い立ちや発言などに自己を投影させたり強い共感を覚えたりすることはあったとしても、やはり最終的にキャラと自分は完全に別人だという結論に至ってしまう。ゲームにおいてプレイヤーである僕は僕で、ゲーム内のキャラクターはキャラクターである。但し、一部のギャルゲーのように何かを疑似体験することが目的なゲームの場合はその限りではない。

かつてモンハンワールドでくりぃむしちゅ〜上田晋也のロールプレイをしてた時の画像

 『ブルーアーカイブ(以下、『ブルアカ』という)』に対しても他ゲームと同じ姿勢を示している。
 『ブルアカ』ではプレイヤーネームを自由に決められるだけではなく、設定した名前をマスコット的キャラのアロナが音声で呼びかけてもらうことも可能となっており、ゲームへの没入感においはどのソシャゲよりも深く優れている。そんなこともあり、多くのプレイヤーが主人公である「シャーレの先生」に自己を投影させながらプレイしていることだろう。

 しかしながら、前述した通り僕は先生に自分を投影していない。というか先生の人格は自己投影が不可能なレベルで自分とかけ離れている。現実の僕は往来の激しい校庭で女子生徒の足を舐め回す変態ではないし、いくら好感を持たれているとはいえ10代女子を勘違いさせてしまうイケメン台詞を吐けるような精神を持ち合わせていない。何より、幾ら生徒のためとはいえ、知能も社会性も格上な相手の元へ単身で殴り込んで行くようなんてことは僕には出来ない。自己の利益よりも生徒の幸せのために身を削る先生に精神的な共感を覚えることはあれど、その聖人すぎる精神性に自己を投影しようなんて、とてもではないが思い至らない。聖人が大っぴら女子の足を舐めるわけないだろいい加減にしろ!

被害者I・Sさん

 ともかく、いくら公式側が先生=プレイヤーとしようとも僕は受け入れられそうにない。

 そもそも『ブルアカ』はそこまで自己を介入させるゲームではない。メインコンテンツであるストーリーモードにおいては2〜3つの選択肢を選ぶ程度しかプレイヤーによる介入要素がなく、選択によってストーリーが分岐することもなければ、結末に変化があるわけでもない。あまりにも自己とかけ離れ過ぎた選択肢にはゲーム側から選ばさせられてる感すら覚える。戦闘においてもオートによるスキル発動でどうにかなる場面が多く(当方アビドス高校編vol.2終了までしか進めてない)、戦闘を指揮しているような気持ちには余りなれない。結果、そこには公式の明言する先生=プレイヤーの一体感はなく、むしろ現場の様子をスタジオから見ているバラエティ番組の司会者のような、物理的にも精神的にも画面越しからやり取りを眺めているような心情を抱く。

 だだ、選択肢自体が全く無価値という訳ではない。僕自身の実際の体験として、能動的に取った“選択”によってわずかながら大人として生徒を守る責任のようなものが芽生えてきたのも事実だし、制作側も“選択”による没入の促進を狙っている意図があるように感じられる。それに、こうした特に意味の無い選択肢があるタイプのストーリーモードは『グラブル』や『FGO』など最前線で活躍するソシャゲにも取り入れられており、プレイヤーキャラの容姿が決まってない点などに違いはあれど、サービス開始からの長い期間積み上げた実績と結果がこれらの手法の持つ有意さを示している。多分、ゲームを作る側の判断としては間違ってはいない。

 しかしながらいくらそれっぽい理由並べ考えを巡らせようとも、やはりどうしたって先生を自分の分身として考えることは難しい。もし、これから大学に通って教員免許を取得しホンモノの先生になれたとしても、彼のように利用され悪意を向けられようとも他者を優先できるような精神性を獲得できやしないだろう。

 (過剰な変態性を除けば)完璧である彼は決して自己を投影する対象なんかではない。寧ろ自己を投影すべき対象は未熟さと幼さの残った生徒の方であり、彼女たちと同じ目線で先生に触れ合うことで大人としての精神を自己に反映させるべきである。こうなると、先日とある生徒に没入し過ぎて脳が焼き切れかけた体験もこのゲームのあり方として間違いではない現象だったのだと思えてくる。

 『ブルアカ』は生徒の目線から先生の持つ大人としての責任と矜持を学びを得るゲームである、という結論が出たところで当ブログの締めとさせていただこう。
 学園内で生徒の足を舐めたり温泉で生徒同じ湯船に浸かったりの変態を参考にできるか!反面教師ってかやかましいわ!

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