栗村アイリは俺だったんだ。
古よりインターネットには「お前(おまい)は俺か」という言葉が存在する。所謂ネットスラングの一つであるその言葉は、例えば誰かによって掲示板上に書き込まれた内容と自身の境遇や体験と一致した時などに用いられ、他者に対して感じる並々ならぬシンパシーをズバリ言い表した使いやすい言葉として現在でも漫画やアニメなどのオタクコンテンツにおいて幅広く使われている。今回取り上げる栗村アイリに向けた僕の感情には「お前は俺か」という言葉がピッタリと当てはまる。「-ive aLIVE!」でのアイリには、共感や共鳴以上のなにかを感じずにはいられない。
栗村アイリは普段明るく天真爛漫なように振る舞うが、その実は内面に卑しさと歪みを抱えた誰よりも人間らしい少女である。
アイリは「何者かになりたい」の気持ちが先走りバンドを始めようとするも、欲まみれな動機を言い出せずそれっぽい建前を提示して誤魔化し、まんまと焚きつけられた仲間とともにバンド活動をスタートさせた。
僕もアイリと同じく欲望だけが先走り、なんの見通しも立たないまま有料ブログを立ち上げた。そして、金と自己顕示の欲求を他人に悟られるないようにそれっぽい建前を掲げ今日まで運営を続けている。
アイリは周囲よりも上達が遅いことに焦り感じるだけでなく、フォローしてくれる仲間たちの優しいに負い目を感じ、遂には負い目に感じ学校にすら来られなくなってしまう。
僕も成績のいい同僚に対して一方的な劣等感と焦燥感を募らせながら仕事をしているし、よく現状に耐えきれず現実逃避をしてしまう。
アイリは自己肯定感が低いあまりつい自虐的になってしまう。僕も自分のことをいつもカスだと思っている。
そしてアイリは自責の念に駆られるあまり自分を導いた恩人に責任を被せようとしてしまう。僕もいい歳こいて他責思考になりがちなところがある。
自己肯定と他者承認への欲求を抱えながらも誠実であろうのする歪んだ精神。
上手く行かない焦りと上手くいっている誰かへの妬み。
自己実現や自己肯定が目的だったはずがいつの間にやら膨れ上がったネガティブな思考。
全くもって他人事とは思えない。
アイリの患っている「何者かにならなければならない病」には現在30代半ばの僕も今以て悩まされている。
アイリが陥ってしまったネガティブスパイラルの中には現実の社会でもがいている僕もいる。
かつてネットユーザーの誰かに「俺」を感じていたように、ゲームの向こう側にいる栗村アイリに確かな「俺」を感じられた。栗村アイリは「俺」だったんだ。
アイリが失踪した理由を考えるある一つの結論を導き出す。それは、自分たちを焚きつけたセラムの存在だった。そして3人はアイリの望みを叶える謝肉祭実行委員会と正義実現委員会へ無謀な戦いを挑む。アイリには、アイリのために本気で悩み無茶をしてくれる仲間がいた。学校卒業後10数年経った僕には地元の友達はおろか社会人になってできた友人すらもいない。
シャーレの先生は街に消えてしまったアイリを見つけ出す。先生はただ寄り添い、諭すことも叱ることもなく、アイリの明かす胸の内にそっと耳を傾ける。アイリにはいつも側にいてくれる先生がいた。これまで僕が通ってきた学校には彼ほど親身になってくれる先生はいなかった。
アイリには「アイリがアイリだったから一緒にいる」と言ってくれる仲間がいる。僕の周りには特にそう言ってくれる人はいなかった。
アイリには共に困難を乗り越えてくれる仲間と信頼できる先生のいる。この環境ならばこの先なにがあっても自分を見失うことはないだろう。後悔ばかりの人生な僕と違って。
栗村アイリは可愛い。さらさら黒髪ロングとホワイトとターコイズブルーの色合いがよく似合っていて可愛い。15歳らしく若干の幼さの残る笑顔や、純朴そうでありながらその実かなり人間臭さい面を秘めているところが良い。そこにどうしようもなく激しい庇護欲を掻き立てられる。
一方僕は可愛くないし女子ではない。アラフォーに片足を突っ込んだ中年だ。
画面のなかのアイリは青空の下で仲間たちに囲まれていている。一方、僕は暗転したスマホ画面にマヌケな面を浮かばせている。
アイリと僕は存在している世界が違う。そもそも同じ存在な訳がない。
栗村アイリは俺ではなかった。
僕は栗村アイリにはなれない。
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